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静なる いのち

 

お逢いせずとも、「着々と歩みを進めている方が増えている」という報告に、

 

嬉しいねぇ。

 

そんな感覚が、全身に満ちてきました。

 

 

何が起きても引き受けるとは、何も起きないをも引き受けることになります。

 

人間は一喜一憂に慣れっこなので、何かが起きるより、何も起きない(沈黙・静寂)方が受け入れ難い

 

しかし、何も起きないを受け容れていくと、個を超えた全の働きに気づくようになり、全てを統括しているいのちの働き感謝しかありません。

 

 

覚めている感覚が定着してくると、人間社会における目上からの「良かれ」に対して、惑わされなくなりました。

 

良かれ助言を受け取って、調べてみたり、動こうとしてみるも、恐怖を土台にした発想に乗っかろうとは思えず、そのアドバイスによって、私自身の「卒業済み」を実感しました。

 

 

旧時代を全力で生きてくださった方のアドバイスだって、今」との質の違いに気づいて、祝福していくと、全体に活かされます。

 

アドバイスが全体に活きていくのではなく、アドバイスを受け取った者の感謝祝福が、光に戻す働きとなって、全体に活かされるのです。

 

 

旧きを なぞるのではなく、感謝と祝福で終わらせて、神魂と神体の和合を成して未知を開いていく。

 

 

人は動ける生命体ゆえに、動物の頂点のように思われてきたけれど、聖なる地に樹木や岩が「御神体」として祀られているように、『身体』を授かった人型生命体の本質は『静』であるのがわかります。

 

 

神社や聖地は、内なる神を現わしていることを思い出してください。

 

静は、聖であり、清であり、勢でもあるし、生である。

 

これだけでも、静の躍動が感じられませんか。

 

 

本質が『静』であると知れば、寝たきりの人に「いのちの働き」が見えるので、存在価値という概念は持ち込みません。

 

少しずつでも、全身の理解が深まっていくと、全てが愛おしい感覚が育まれていきます。