私が霊的成長において、最も嬉しいことは、他者に全幅の信頼を置けるようになったこと。
他者に全幅の信頼で任せられるようになると、他者の活躍が、自分のことのように嬉しく感じられます。
それまでは、家族や友人であっても、嫉妬心を抑えながら、喜ぶ振りをするのが常でしたし、
「自分が表立って活躍しなければ、社会貢献しているとは言えない」と躍起になっていたので、純粋に嬉しいなんて、もはや別人です。
以前は、大概のことは こなせるものだから、なんでも自分でやらないと気が済まないし、
組織や団体の中で、求められる事に応えられない人を見ると、「やれる者がやればいい」と、
頼まれたわけでもないのに、その人の分まで背負い込んでいました。
そんな あらゆる場面に対応可能な優秀で多才な者は、一部の人(特に上司)には重宝がられ、自分が活躍している英雄気分に浸れますが、
これは相手に対して非常に失礼な態度であり、才能の芽を摘み、活躍の場を奪うことになると理解したのは、霊的成長の証でもあります。
もちろん、頼まれたら快く引き受ければいい。
でも、頼まれてもいないのに、勝手に決めつけて「良かれ」で相手から奪うのは、どうみても思いやりとは言えません。
表彰される場面が多い割りに、「表彰なんて しなくていい」と素直に喜べなかったのは、「そういうことか」と腑に落ちた次第です。
そして、写真家時代がそうであったように、「私」が認知されようが されまいが、誰も何も困らないと、明確に理解できたのも嬉しい限り。
やることはやる。それは当たり前。
誰も見てなくても やる。誰かの反応や手応えがなくてもやる。これも当たり前。
霊的成長を本気で希求し、実践していくなら、誰も見てないからサボるという発想は出てこないし、そんな事をしても誰も喜びません。
人間を中心に考えると、視野が狭小になり、生き残り競争になりますが、私たちは多くの生物と共存しています。
肉眼で見えるイキモノはもちろんですが、可視化できないイキモノたちの方が圧倒的に多いので、
繊細に感性を育んでいかないと、心底からの感謝は湧いてこないと思います。
例えば、カビや細菌と聞くと、「抗菌」や「除菌」という言葉から、条件反射的に排除したくなるかもしれませんが、
素材を発酵食品に変容させるのもカビや細菌の働きですから、視野の拡大は必須です。
「うれしい」は、「宇霊しい」でもあります。
宇=天地四方、無限の空間
霊=魂、光の存在
語尾の「しい」は日本語の形容詞の活用形であり、うれしい=本質を表している言葉でもあるのです。
意識が覚めていると、「うれしい」の観点が、世の中の常識から外れていきます。
大勢が嫌がるモノコト、避けたがる状態・状況に対する見方が変わるため、悲観も同情も持ち込みません。
令和になり、常識を超えた生き方にシフトされる方が増えてきて、
広く認知されている常識が、必ずしも真理ではないことは、多くの方が気づき始めているのではないでしょうか。
昨今の社会動向から、確信まではいかなくとも、違和感としてキャッチしている方は、相当数おられるはずです。
そう断言できるのは、やはり常識を超えて生きる者の慈味で地道な活躍がわかるから。
華々しい活躍ではなくとも、全体繁栄の土壌作りと種まきを欠かさないのだから、天意をもって育まれないわけがないのです。