今は亡き両親から学んだ『貫く姿勢』についてお話させて頂きます。
両親は寿司屋を営んでおりました。
父は職人として「どんな経営状態にあっても、ネタの質を落とさず、丁寧に仕事をする姿勢」を貫き、
母は「利他の精神で生きる」を貫く姿勢を生き様で示してくれました。
寿司の数え方が「貫」なのも、粋な計らいに思えてきます。
母は死後の処理まで事細かに指示を残し、「お見事!」と言えるほどに万事万端を整え、用意周到に旅立っていきましたが、
私が尊敬し、受け継いでゆくのは、彼女が「やってきた事」でも「言ってきた事」でもなく、生き様に現れていた『貫く姿勢』です。
ただ、昭和という時代が培った自己犠牲がベースとなっているので、父も母も本音を抑え込み、溜め込んだ末の病気で亡くなっています。
そうやって昭和や平成の時代を築いてきたかもしれませんが、もう、これは時代錯誤です。
慈愛・感謝・祝福・歓喜を貫く生き方に変容するのが、次世代を担う私の仕事であり、令和を生きる人型生命体の進化の命題でもあります。
自宅で看取るにあたり、母は「死」に対して「怖い」とは一度も口にしませんでした。
そして、死を目の当りにする私も「死を見届けるのは怖い」とは全く思いませんでした。
「死ぬのが怖い」も、細胞レベルに根深く刻み込まれた思い込みのように思います。
「死」に対する偏見は、本人の決意次第で、その思い込みを自由に解除できるのです。
「他者のわがままを丸ごと引き受ける」チャレンジが強制終了となり、瞑想会の後押しを受けて、「自他なく、嫌っていた要素を全部丸ごと愛していく作業に没頭してみる」チャレンジが始まりました。
これまでも、人間が陰に追いやり、闇に葬ってきた、嫌いな事・否定してきたモノコトを愛する仕事をお伝えしておりますが、今回は、記事での発信は二の次にして、実践に全集中させて頂きます。
愛するとは、好きも嫌いもない状態。
好きも偏りであり、嫌いも偏りであることを認めて、初発の魂に立ち返り、純粋な天意が発揮する生命体として存在することが、今の時代にどれほど重要なのかを、生きる姿勢を通してお伝えできればと思います。