この時期になると、避けては街を歩けないほど、至る所でクリスマス・ソングが流れています。
ポップにアレンジされた讃美歌『神の御子は今宵しも』に、「神の御子とは、私たち全員のこと」だと浮かび、この曲の歌詞の読み解きにチャレンジかと思いきや、同じメロディで歌詞が違う『主のとうとき みことばは』という讃美歌の存在を見つけて、こちらへGO。
これにより、日本の古歌や歴史書ばかりでなく、聖書でも《最初から神と人は同質である》と明言している ことを知りました。
聖書には、「はじめに、ことばありき」という詞にあるように、《全てが神から生じ、全てが神そのものである》と明記されています。
この歌詞の基とされる新約聖書の一文「神ご自身、『わたしは、けしてあなたから離れず、けして置き去りにはしない』より、《人は、最初から神と一体である》と伝えているのが読み取れます。
これをベースにして、『主のとうとき みことばは』を解読していくと、
1、主のとうとき みことばは わがいのちの もといなり
神の尊くて美しい光透波は、いのちの基(虚空・全母)である
たよるわれは 安けしや 世にまたなき みことばよ 世にまたなき みことばよ
それを知っている真の己は、いつも安らかであり この上ない美しい光透波である ×2
2、ただわれのみ な(汝)が神ぞ おそれずいけ ためらわで
ただ分身(割れ)であるだけで 皆が神なのだから 躊躇うことなく、怖れず生きなさい
力つよき わがかいな なれにそいて はなれじや なれにそいて はなれじや
真の己の大いなる力 生れに寄り添い 離れることはない ×2
(※ かいな = 腕 → 力量)
このように、讃美歌で『皆が神なのだから、躊躇せず、怖れず生きよ』と明言しているし、日本語訳だって、「生れに添いて離れじや=生に寄り添い、離れることはない」と表現しているではありませんか。
なのに、こういう解釈は、とんと見かけません。
人は愚かで弱い存在という根強い思い込みが、常識を覆す解釈は排除する動機となり、もし、「神と同質だ」と公言すれば、「それは神への冒涜だ」と信じているからでしょう。
買い物中に耳にしたクリスマス・ソングの後押しによって、『日本ほど、人に神を観る国はない』も思い込みだったと知らされる展開に、感謝と祝福でいっぱいです。
実しやかに語られてきたことを、疑う必要もなく、ただ「そうである」と認めて、そのフィルターを外した状態から、まっさらな視点で見てみると、全く違う世界が広がっていることに気づきます。
宇宙観における『天動説と地動説』も、その一つ。
※15世紀までは、地球が宇宙の中心にあって、太陽や他の惑星が地球の周りを回っている『天動説』が定説だったが、大航海時代が始まって、天文学の発展により、太陽を宇宙の中心に置き、その周りを地球や他の惑星が回っている『地動説』が有力となった。
思い込み・信じるという固い結び目を解くと、そのモノに宿る神が蘇り、天意に溶けて、解放されていく よろこび が感じられます。