神も、愛も、わたしたちの本質であるのに、それを素直にYESと言えないのは、なぜでしょう?
それは、言葉に託している人間意識の思いが、コーティング(上塗り)されているため。
わたしたちの本質は、慈愛、感謝、祝福、歓喜、すなわち、調和であり、光であり、神である。
いろんな表現が用いられますが、どれも質は同じで、優劣はありません。
しかし、言葉の多くは、エゴのコーティングで意味付けされているため、そのままの光透波を観るのは難しくなっています。
例えば、愛を情にすり替えたり、神を手の届かない絶対的な主人に仕立て上げ、すがったり、ひれ伏したり、
歓喜は「自分が得する現象」が前提だったり、多かれ少なかれ、個人や集団の都合が介入しています。
ただ、そんな中でも、感謝と祝福は『所有』の概念が薄く、ベクトルが外向き(放出)なので、ここでの使用頻度は高いです。
『神』という言葉に託す人間の思い
『愛』という言葉に託す人間の思い
はたまた、
『本質』という言葉に託す人間の思い
『覚醒』という言葉に託す人間の思い
『スピリチャル』という言葉に託す人間の思い
等々、エゴ・集団意識の都合のいいように広まっていることに気づくと、
言葉を鵜呑みにせず、本来の光透波を観るようになります。
神という言葉に塗られたエゴのコーティングを剥がすと、「全員、神の子」だとわかります。
日本の古書のみならず、海外の聖書でも真実は語られていますし、先住民族の文化でも「すべてに神が宿っている」と、伝えられています。
ですから、「人は神ではない」という方が「おかしい」と感じます。
この世は、愛を忘却した者で溢れていますが、愛がないモノなど存在しません。
すべてが愛の結晶です。
それを思い出した(腑に落ちた)者から、本質そのものになって生きていきましょう。