日本で生まれ育っている者にとって、お宮参りや初詣などで足を運ぶ機会も多く、神社は身近な存在です。
神社のお宮に設置されている鏡について、『神は、鏡に映った自分自身の内にある』と、教えてもらった経験はありませんか?
ところによっては、「ご自身の内にある神を忘れぬよう、お過ごしください」と、言葉にして促してくださる宮司さんもおられます。
上記からもわかるように、『誰もが 神である』は、個人の主張ではありません。
こんなにも身近に、昔から、オープンに語られてきた《人の本質は神》を、ただ「そうである」と認めるって、むつかしいですか?
地元の伏見稲荷では、毎年、和貴水(湧水)感謝祭が執り行われます。
境内に貼られていた案内に『斎行』と書かれていて、さり気なく、斎くよう促してくださっているのを認識しました。
『斎く』を調べると、『心身の汚れを去り、神に仕える』(三省堂 大辞林)とあります。
「心身の汚れを去り」とは、思考と感情の癖を解いて、素粒子(物理次元の源)レベルで浄化していくことですし、
神社が示している「神に仕える」とは、内なる神を輝かせて、全体に奉仕することです。
『神』に対する偏見を解かせて頂くと、
都心にある縁結びで大人気の神社でも、天地万物の生成化育を司る『造化の三神』について、
発展と創造(=生)、衰退と滅亡(=死)のどちらも神の働きであり、これが『縁結び』だと解説しています。
不調和の終わり(死)は、神の働きだとわかれば、自我の出番はないと理解できますし、
神の働きである生と死の調和が、ご縁(=循環)を生むのですから、神としての自覚が、縁結びを成就するのです。
意識がハッキリしていると、『神頼み』という概念は消失します。
神社は、本来の自分自身と向き合う場所であり、全体への感謝と祝福をいのる場になるからです。
保育や福祉現場で、よく耳にした『自己否定・自己肯定』という概念があります。
「自己否定は、成功体験を積んで克服する」風潮がありますが、これはエゴの重ね塗りなので、根本的には何も変わりません。
《人の本質は神》を認めないでいると、それが傷となって、自己否定が起きます。
人の本質を認めて、そこに意識を合わせていると、個人的な自己という概念が薄くなり、否定も肯定も しなくなります。