忌明けを境に、すっかり穏やかな生活になりました。
喜ばしい状態なのに、以前はワーカホリックだったので、仕事を多く抱えている人を羨ましがる癖が ひょっこり出ることも。
でも、おかげさまで、代替えとなるモノや動きを持ち込んで、気を紛わせる行為はしなくなりました。
私は毎朝、お天道様に向かって、「弥栄発展のために何でもします」と宣明します。
曇りでも雨でも、その姿は見えずとも、その奥に在るのを知っていますから、意宣れない日はありません。
前述の通り、学生時代から優等生キャラで仕事中毒だった私は、どうしても直接的な役立つアプローチに動きがちでした。
でも、そこには「その状態を悪い・劣っていると見なし、改善しようとする」偏見がありましたし、見えている部分だけを追っていました。
「何でも」というからには、見えない部分も含めて「何でも」ですから、気づいていかないと「何でも」することが出来ません。
見えない「何でも」の代表例を申し上げますと、
どんな状態・状況をも、喜んで引き受ける
この世的に喜ばしいモノコトはもちろん、最低最悪とされる状態・状況を喜んで引き受けると言えば、わかりやすいかもしれません。
喜んで引き受けるとは、心底から感謝することであり、心底から感謝するとは、それそのものを祝福することです。
現在は、ひたすら部屋の整理・場のクリーンアップに勤しんでいるのですが、これが今の私に与えられている弥栄発展に役立つ仕事です。
使命感に浸れる役割を欲するなら、部屋の掃除に何の価値も見い出せないかもしれません。(昔の私がそうでした)
ですが、氣を通して『場を整える』重要性を理解してから、物理次元の掃除が、どれほど大事な仕事かがわかるようになりました。
所有物が沢山ある状態が豊かさだと信じてやまなかった時代の象徴が去り、整理していると処分するモノが山積みになります。
使い古された家電や、「いつか使うかも」「もったいない」と目の届かない場所に押し込められていた物たちを、『ごみ』として送り出していると、モノに対してだけでなく、母との記憶も絡まって 感情が揺れ出します。
まぁ、9割がた、まだ使えるのに処分したり、思い出を廃棄することへの罪悪感ですが。
罪悪感が出てきたら、表出したことをお祝いして、その働きに感謝します。
何度もやっているうちに、罪悪感に乗っけていた重さや痛みは薄れていきますよ。
母に対する近すぎるゆえの確執は、不意に溢れる涙とともに ありがたく祝っているうちに、頑なな縛りが緩み、洗い流されていきました。
昭和・平成時代を築いてきた者の物資所有量たるや、集積所を陣取るだけでなく、回収業者に申し訳なくなるくらい多いです。
目を疑いたくなるほどの膨大なゴミ量を目の当りにすると、どんなゴミでも収集してくださる市の ごみ回収システムに感謝しかなく、ここに神の御業を観じます。
パレスチナ自治区の難民キャンプでも、国連のごみ収集車が稼働しており、場所や状況を選ばない ごみの回収は神の御業としか思えません。
そして、連日、黙々と作業する職員さん達は、神の御業を引き受ける神の使者そのものです。
これはポエムでも比喩でもなく、リアルで真面目な感想です。
いつ見ても機敏に颯爽としている彼らの働きを見ていると、心底から そう思うのです。