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没個性 ~あらゆる可能性の開花~

 

ふいに「没個性」というワードが浮かび、「個性を纏っている間は、限定される」考えてみれば当たり前の発見がありました。

 

個人の好きな事、得意な事を伸ばそうと頑張るのも素晴らしいですが、これだと認識した可能性しか着手できないので、未知の才能が開く芽を摘んでしまいます。

 

没する=死する意味があり、個性がなくなると、条件を持ち込まないため、あらゆる才能が開花するチャンスが生まれます。

 

年齢も、性別も、職業も関係なく、好き嫌いを超えて、得手苦手を超えて、なんでもチャレンジできるから、「そりゃそうだ」となるわけです。

 

 

ちょっとやって断念した場合、「やってみたけど、出来なかった」とジャッジしますが、これは、個人の思い通りに展開しなかっただけで、やってみた時点で出来ていますし、一概に すぐに辞めたからダメ、長く続けたから良いとは言えないのは、課題によって目的が異なるから。

 

例えば、写真家活動や『食』場など、期間限定で終了する課題もあれば、霊的成長のように人生丸ごと費やしても終わらない課題もあります。

 

その見極めは、自分自身が知っていますから、『カラダの声を聴く』を表面の感情や思考で判断するのではなく、内奥まで意識を潜らせて、カラダの中心(臍下丹田の奥の方)に耳を澄ませていくと、自ずとわかってきます。

 

ただし、どんなに意識を向けたところで、肉体として現れている御神体への敬意と信頼がなければ、その声はエゴのノイズに消されてしまい、天意を見極めることができません。

 

 

長らく人間意識を中心にしてきたので、どんな選択も、どんな展開も、どんな結果も「すべて素晴らしい」と認めることができないのは、そういう癖がついただけ。

 

その癖を消化するべく、天意からの愛で祝うチャンスを自ら創り出していると認識していれば、あらゆる瞬間に感謝と慈愛が観じられます。

 

 

意識と肉体が一致団結して体験するから、腑に落ちます。

 

そもそも、肉体と共に在るから、あらゆる可能性が発芽できる基本事実を認めると、某芸人さんの「生きているだけで丸儲け」に真意が読み取れたりするので、真意・天意は、ジャンルを超えて普及しているのがわかります。