キッチンの水回りを掃除している時、
こまめに掃除することが、丁寧に生きるとは限らない。
「汚い・臭い」とジャッジしながら掃除するのと、垢さえ愛おしく感謝しながら掃除するのは、全然違うのがわかるかな
という脳内テロップが流れてきました。
汚れたから掃除する、汚い空間はイヤだから仕方なく掃除する
これが人間意識の当たり前なら、
清々しいから掃除する、空間が愛おしいから掃除する
これが神の意志の当たり前。
意識の成熟は置いといても、真心から掃除されている方は多いと思います。
これは、誰の中にも、最初から御心(=真心)が在るということ。
神社の境内が、いつも心地よい空間なのは、
毎日、今ここにある空間に感謝して、清々しい空気を祝福する意識で掃除しているから。
汚れたら掃除する ➨ 汚れが目立たなければ掃除しない発想ではありません。
たとえ、イヤイヤ掃除する者がいたとしても、それは神社が教えている所作ではないのは素人でもわかります。
どんな作業でも、やればいいってもんじゃない。
感謝、祝福、慈愛を観じながら行なう作業は、どれも真心の仕事です。
日常の身の回りのものを愛おしく観じて、存在していることを祝福し、役に立ってくれていることに感謝し、
その母意から、クリーニングやメンテナンスするだけで、充分に長持ちしてくれます。
生活に豊かさを与えてくれる日用品・雑貨への祝福と感謝を忘れて、
「毎日、キレイにしなきゃいけない」強迫観念で掃除している空間に、安らぎ、和らぎ、温もりが宿るでしょうか。
これはノウハウではないし、合理的ではありません。
私は掃除のプロではないし、片付けの専門家でもありません。
プロの言う事は鵜呑みにするけど、素人のメッセージは採用するに値しないですか?
俗にいう《無名》は、自らを覆うバリアがないので、その奥が透けて観えやすい状態です。
奥を観ようとしない者にとっては、握り締めている偏見が炙り出されます。それは《有名》でも同様です。
表面だけでジャッジしても、それはそれでかまわないので、まずは、その偏見を掃除するから始めてみてはいかがでしょう。
そうすると、自ずと奥が観えるようになり、無名であっても、有名であっても惑わされません。