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息を合わせる=それそのものになる

 

酪農系青春漫画にある馬術部のインターハイでの一コマに、息を合わせるそれそのものになるヒントとなる場面がありました。

 

 

癖のある馬ほどワクワクして目を輝かせている乗馬の上手な選手がいて、

 

「めんどい奴に、めっちゃ楽しく乗るコツみたいのある?」という質問に対する返事がこちら。

 

 

コツ? うーん、プラグとコンセントみたいな?

 

馬の気持ちに応えよう、応えようって、全身の神経を使って、馬の声を聴こうとするでしょ。

(もちろん、声なんて聞こえないけど)

 

そうして乗っていると、お尻がプラグになってコンセントにがちっとはまるような感覚になる時があるの。

 

そういう時って、「自分の動きが馬の動き、馬の動きが自分の動き」みたいになっちゃって、

 

馬自身が「楽しい!」って思っているのか、自分が「楽しい!」って思っているのかわからなくなるの。

 

 

その感覚は全員にあると思って「そういう事ってあるでしょ?」と問いかけるも、

 

多くは「わからない」と答えているが「俺、わかるー」という者もいる。

 

 

さて、『それそのものになる』ヒントとしてご紹介しましたが、感想はいかがでしたでしょうか?

 

 

今回の注目ポイントは、読み手によって、受け取り方が真逆になるところ。

 

『地上の乗り物と一体化する』という見方をすると【肉体(表層)に同調した自我との一体化】ともとれますが、

 

神社に奉納されている神馬は、神が人間界にやってくる際の乗り物とされており、馬=神とみるならば【神との一体化】ともとれます。

 

 

どちらを採用してもいいですし、全く違う解釈を採用しても自由です。

 

全身感覚を使って、自由な発想を広げるきっかけになると嬉しいです。

 

 

「今、わたしは何に息を合わせている(同調している)のか?」を意識している時に、自己主張できますか?

 

を取りにいくドラマの中でも、個人の価値観の崩壊によって、周囲との調和が生まれる動きを見せてもらったりして、

 

普段のどうってことない一コマに集中していくと、全てのものから気づきが起きて、理解が深まります。

 

 

令和になり、先達が読み手に答えを自分で考えるチャンスを与える発信に、全体の霊的成長が反映されていると知りました。

 

また、神儀を提供する傍らで、自身で神と一体化するチャンスを促す発信があり、これもまた「自分でやってみな」という投げかけに、

 

全身が歓喜に打ち震えておりました。

 

 

もちろん、「はい、喜んで!」で受け取って、動いてみますが、途中で物理的なストップがかかったりすると「どっちでもいい」として、

 

無理してもやりたいと思ったら、あらゆる可能性を見出して先に進むし、それほどでもなければやらないこともあります。

 

それそのものになって考えてみると、自ずと答えが観えてきます。