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尊い普通の生活

 

数人から「無茶と勇気は違う」と窘められるほど、異端行動が多かった私の体験からの学びを一言で表すと《普通の生活の尊さ》です。

 

これは、常識が正義ということではありません。

 

 

日々、当たり前に存在してくれるモノコトの全てに敬意を払い、感謝と祝福で生きる

 

これが《普通の生活》です。

 

 

消えゆく全てを感謝して送り出し、現れくる全てを祝福して迎え入れる。

 

 

それが人間にとって不都合で、忌み嫌われているモノコトであるなら、尚更、積極的に引き受けていくのです。

 

なぜなら、「すべて素晴らしい」と認めることが、弥栄の基本だから。

 

最初に、素晴らしい存在だと認めるから、光に昇華され、本来の姿に変容できるのだから。

 

 

これを実行していると、日常生活の瞬間のすべてが愛おしいし、ありがたいし、身体の奥から生きている歓びが満たされていきます。

 

粛々と繰り広げられている普通の生活に神(=光)を観る。

 

それが、霊的成長のファーストステップです。

 

 

社会的に上手くいっている者に教えを乞いたがるのは人間のサガですが、対象が何であれ、その奥を観るようになさってください。

 

上手くいっていないように見えるのは、そこに偏見があるからで、「すべて素晴らしい」神の視点で観れば、何事にも祝福できます。

 

それを徹底していると、人間エゴが光に変容して、人間的な忌み嫌うモノコトから卒業していきます。

 

 

「上手くいっていないように見える」偏見を解く一例を申し上げますと、新生活では、シェアハウスにお世話になる運びとなりました。

 

今の住居は、ベランダの先に芝生が敷かれており、庭付き気分を味わえて、快適で優雅な生活空間ですから、後退しているようにも見えます。

 

 

しかし、このシェアハウスには、数々の新体験が用意されていました。

 

ドラム式の洗濯機が設置されているため、「洗濯物を干す」という作業がなくなることに驚きましたし、

 

共用部分の掃除や、光熱・通信の契約などは、管理会社にお任せですから、ありがたい限りです。

 

 

そして、荷物を置くスペースが限られているため、今、必要なものだけを持っていく断捨離となり、より一層身軽になりました。

 

不必要なモノを未練なく捨てる行為は、思い・記憶の浄化に直結しますし、カタチの異なる快適で優雅な生活の始まりだったのです。

 

実際、「引っ越しって、こんなにラクだったっけ?」と思うほど、軽やかに展開しています。

 

 

新生活を機に、「公の一員として天意を発揮していく!」と決めて、私に割り振られた職は《食》でした。

 

実家が飲食店を営んでいて、親の「いいものを食べさせてあげたい」思いから、贅沢な食体験をさせてもらいました。

 

それゆえに、「ちゃんと栄養の摂取を考えて食べなければならない」呪縛も強かったので、《食》に従事したいと思ったことはありません。

 

なので、素直に「やってみよう」と思った心境の変化が面白かったです。

 

 

実質、裏の仕事をしていても、表の動きがない沈黙の事業なんて聞いたことありませんし、それが4年続くなんて、ありえないと思うけど、私にとっては、これこそが公に役立つ事業だったと、人の動向と経済が教えてくれました。

 

 

以前の私はソツなく上手く立ち回ることに長けていたため、「静かに待つ・黙って受け容れる」ことが苦手でしたが、この沈黙の事業のおかげさまによって、人と経済の行き来を静かに待つ・黙って受け容れる器が格段に深まりました。

 

 

経済が滞りそうになっても、素直に現状を受け容れて、こだわりや偏見を持ち込まずに行動していくと、ちゃんと巡っていきます。

 

何度か行き詰りそうになったけれど、その都度、自己責任で選択して、感謝と祝福から行動を起こしていると、トラブルにはなりません。

 

 

生活する上で、経済と人はリンクしているため、経済が巡っているのは、人との関わりがある証拠です。

 

逆を言えば、人とのトラブルがあると、経済が巡らなくなります。

 

どんなに上っ面で感謝していても、そこに真心がなければ、すぐに化けの皮が剥がれて、和が乱れますから、常に本氣で関わっていきましょう。