某実業家が、自称『お金配りおじさん』として語る記事を見て、
「豊かになるのは、出している本人だけなのだが」とボヤく脳内テロップから、こんな気づきがありました。
人間が喜ぶ物品配りの大御所と言えば、クリスマスに色を添えるサンタさん。
『サンタ』を並び替えると『サタン』になります。
人間目線では、サンタは「欲しい物をくれる優しいおじさん」、サタンは「人間を欺く悪魔」と、相反するように見えますが、
どちらも人間が作った宗教から生まれたキャラなので、サンタもサタンも同質です。
もらい慣れさせることで、貪る心を育んでいるとわかれば、否定できないでしょう。
彼らとは真逆の働きをしたのが、
貧しい人々の家をまわって、物品を乞う行動を起こしたおシャカさん。
お釈迦さんは、托鉢によって、自らが積極的に差出す重要性を、黙々と行動で示しました。
貪る心が貧困を生むのだから、「ないから、やらない」では、いつまで経っても貧困発想から卒業できません。
私たちは誰もが既に豊かな存在であると認めて、
「内に全部在る」意識から出す行いをすることで、豊かさが循環します。
施しすることを『喜捨』と呼ぶように、
そこに、積極的な喜びから出す行動をしていると、発展しながら循環していきます。
あえて「貧しい家を回れ」と弟子に指示したのも、そういった天意からの愛があったから。
スピリチャルを知ろうが、知るまいが、
一切の保身なく、純粋な喜びから、全体に奉仕する経験がないなら、托鉢の本意が腑に落ちないように思います。
もらい癖は悪くないし、恥じる必要もないです。
ただ、もらうばかりでは、先細りする一方だということは知っていてください。
それに、おシャカさんは、乞う行動を恥じていません。
ただ、天地自然の法則を理解した上で、貧しさを引き受ける覚悟を持ち、それを上回る積極的に喜んで差出す行いをしていたのです。
さて、どちらが、全体の豊穣を祈り、実行しているかは、正解を求めずとも、おわかり頂けると思います。
長きに渡り、我々に夢を見させてくれたサンタさん。
貴方の働きに感謝です。お疲れさまでした。
変容は、常に更新しています。
真新しいを実感するのは、それまでとは全く異なる発想と行動が発生した時。
身近なエピソードでお伝えしますと、
私は毎朝コーヒーを飲むので、片っ端から珈琲豆屋さんを渡り歩いて、
産地の違い、味の違い、豆の状態の違い、販売店の対応の違いなどを楽しんでいるのですが、
先日、その場の思い付きで、「店主のお勧めの中から、値段を見ないで嗅覚(豆の匂い)だけで即決する」を実行した時、
滑らかなやり取りから、先方への信頼と、自身への信頼が読み取れて、なんともいえない清々しさがありました。
それまでは、珈琲に限らず、買い物は自分が欲しいものを選ぶ癖がありました。
「そんなの当たり前でしょ」と思われる方が大半だとしても、身近なところから、発想と行動の変容は可能なのです。
「悟ったから おめでとう」が、人間の当たり前なら、
「悟らなくても おめでとう」は、神々の当たり前。
悟っていないも、悟ったも、両方を神の意志氣で祝うから、丸ごと変容できるのです。