古事記は言霊の奥義書とする書籍を読み、日本語の一音一音に神が宿っていること、日本語は世界でも珍しい調和の言語と知りました。
まず、著者の素晴らしいところは、
いろんな流派があるけれど、どれが正解か探っても意味がない。真意を知ろうとするところは皆同じ。
言霊学は、元々は天皇のための学問だったけど、民間に流出したのだから、ありがたく享受して、一人一人が継承者として宝とする。
先師たちの教えを鵜呑みにせず、自らの剣で検証して、踏襲と修正の両方を採用している。
と、自由度が高く、フラットなのが伝わってきます。
読み解きで繰り広げられる 音と漢字の組み合わせに「なるほど」の連続で、『天』と『点』が共通することも書かれていて、釈迦の言葉の漢字の置き換えによる新発見は、私の中にある自らの剣によるものであり、改めて、内なる神々(光の働き)に感謝しました。
古事記と言えば、イザナギとイザナミの子産みは有名ですね。
そんな神々(子音)が出来る前に、流れてしまった子がいるエピソードでは、それは失敗だったのではなく、先に言葉の流れ(音が活躍できる場)を作ったのであり、先に《場を整える》重要性を知りました。
少し前まで、私はミミズの役割をしている自覚でもって、せっせと場作りに専念していても、どこかで不本意に思っていました。
(それは、注目されたい自我が残っていたから)
でも、カタチが活躍するための場作りは、肝心要の行動なのだと再認識し、これは全員に伝えていく重要ポイントだと肝に銘じました。
(でないと、土台作りを疎かにして、カタチや結果に執心してしまうので)
実は、本文の読み解きが難解に思えたために、早々に、あとがき から読み始めました。
その何気ない所作から、「終わり・完了のバイブレーションで始める」気づきが起きて、某ドラマの文字の神様降臨さながらでした。
日本は、言葉もそうですが、民族としても調和を体現しています。
これは実体験での学びですが、地球の地理的に広範囲に飛ばされて、英語も現地語も殆どしゃべれず、現地では、日本語どころか 日本人も珍しかったりするので、言葉を介さないコミュニケーションなのに、いろんな国の人々が集まると、日本人の中和性を観ることが多いのです。
たいして自己主張しないから、「自分がやってる感」も皆無で、もはや体臭がそうさせるのか?!と思うほど。
これは冗談ではなく、体から醸し出される雰囲気(=全身のバイブレーション)がそうさせるのです。
言葉が不自由であるほど、放っているバイブレーションは際立ちます。
全身のバイブレーションが、言葉の代わりに働いてしまうので、こればっかりは、自分も他者も誤魔化せません。
流暢に話せるに越したことはないけれど、言葉が理解できるがゆえのトラブルもあったので、話せるほうが良いとも思いません。
ただ、五十音のルーツを知ると、言葉を話す・書く時の姿勢はまったく違ってきます。
使う言葉によって、担当する神(働き)が変わってくるからです。
ちなみにタイトルを解説すると、父韻と母音の結びによる仕合わせ = 陰陽合一の国・日本です。
それには、仕(利他の天意を広げる)の体現が大事!
※利他の天意=他者の活躍や幸せを祝うこと