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いのちが生きている

 

個人的な私が生きているのではなく、いのち(天意・神の光)が生きている。

 

この真理を身体が教えてくれました。

 

 

平穏ならまだしも、何か問題に見える事が起きていたら、真っ先に最悪の事態を避けるべく尽力するのが人間の癖です。

 

例えば、家族同然の仲良かった人と、何らかのトラブルが生じて、絶縁状態になったとします。

 

個人的私というフィルターを通すと、自分に非があると思えば罪悪感相手に非があると思えば被害者意識オプションで悲壮感絶望感を味わうこともできます。

 

とにかく関係を修復しようと、あの手この手を考えるかもしれません。

 

でも、一旦、完全に情を解いて俯瞰して見ると、「押しに負けて従っていた」「行きたくないのに無理して行ってた」など、無意識の我慢から解放された側面を知り崩壊や損失が新しい扉になっていることに気づきます。

 

 

そして、新しい可能性は、嫌いなレッテルの陰に隠れていることがあります。

 

その昔、笑顔の写真家という肩書をいただいて、世界各地を訪問する機会に恵まれ、展示会を開催して頂いたり、新聞で紹介して頂いて、マインドに映える展開を羨む声も届きましたが、私にとっては、写真も旅行も嫌いだったので、個人的私からすると「やりたくない」ことでした。

 

でも、いざ当事者になってみたら、楽しくてたまらなくって、どんな環境でも喜んでやらせていただきました。

 

このように、好き嫌いを超えていのちの躍動を観じて実行していると、全てが繁栄するためのチャレンジになるのです。