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『人間の卒業』の履き違え

 

その昔、人間の死は、魂の課題を終えた地球学校の卒業だと思っていました。

 

でも、『ボクらは人の形した光』という科学的根拠を伴う事実を知ってから、人間の卒業の履き違えに気づきました。

 

 

このセリフは、アラフィフ世代なら、誰もが知っているであろう人気音楽バンドの歌詞です。

 

流行りに疎い私でも知っていましたし、コンサートだけでも何万もの人々が無意識に真理を聞き入れ、口ずさんでいるのですから、真理は いつだって、どこでだって公開されていて、「気づくか、気づかないか」の違いなのです。

 

 

では、どのような履き違えなのか、私の例でみていきましょう。

 

学生の頃、「子どもは、一生分の財を持って生まれてくる」とする古人の言い伝えを聞いたとき、「一生分の財は、寿命までの生命エネルギー量」だと解釈して、「それを短期間で大量消費して、早く卒業(他界)したい」と、勉強でも、仕事でも、がむしゃらに疲労困憊するまで、思いつく限りの全力を尽くしていました。

 

こうと決めたら、とにかく徹底するので、学校の成績はトップクラスになり、思春期の身体の変化を受け容れられず拒食症になり、会社や地域の組織に入れば、ソツなくこなして、率先して何でもやるので、どこに所属しても重宝されたにもかかわらず、コンプレックスを隠すべく理想の自分像を演じることに執心していたため、どんなに周囲に褒められても、自己卑下がありました。

 

 

良いも悪いもなく、「そうであったこと」を羅列しましたが、明らかに過剰に生命エネルギーを浪費しています。

 

たとえ、不可抗力の肉体死を迎えたとしても、自分を愛する自己尊厳がなく、心身ともに自分を傷つける行為を重ねることが、魂の課題を終えた『卒業』になるでしょうか。

 

 

卒業の意味を調べると、「学校の全課程を学び終えること」とあります。

 

この世は魂が成長するための地球学校なら、自死は自主退学となり、肉体死と卒業はリンクしません。

 

人間プログラムを終わらせて、神意識に還る「人間の卒業」はありますが、肉体死が人間の卒業ではないのです。

 

 

私たちの本質は、歓喜、感謝、祝福、慈愛です。

 

全てを愛する神魂と合一して、神化(進化)していくのが、人型生命体に共通する魂の課題です。

 

 

仮にも卒業というのなら、最低でも人間プログラムから離れて、神魂に蘇ることが必須課題ですし、生死は同時双方向の光の働きを理解すると、「寿命」という概念が消失して、「一生分の財」が成立しなくなります。

 

光の循環を知ると、肉体死を繰り返してきた人間の歴史に違和感が生じ、新しい人型生命体によって、幕の引き方が多様化していきます。