人間とは、記憶の寄せ集めであり、固定概念で構築されているのだから、
数多の固定概念を祝い、感謝し、光に戻していくならば、本来の人型生命体に戻っていくのは、頭でも理解できるのではないでしょうか。
偏見を解く作業だけでも、新たな視界が拓けます。
更に進んで、それまでの固定概念の働きに、敬意とともに感謝と祝福を送っていくと、概念そのものが放つ光に戻れる喜びを観じます。
日本中が熱狂的な賑わいを見せている『鬼滅の刃』劇場版を観てみたら、
無限列車というネーミングにも現れているように、人型生命体の神化に役立つ気づきの宝庫でございました。
観客動員数2,688万人(2月1日付)ということで、映画を観ている前提で進めていきます。
まず、小学生でもわかるメッセージは、
「眠っているから、夢を見ることができる」(⇔ 眠っていなければ、夢は見ない)
え、そんなの当たり前ですって?
だとしたら、夢を叶えたいと願っているなら、まさに眠っている状態だと認めているのですね。
夢か現実か混濁している主人公の口から、さり気なく「覚醒しなきゃ」というセリフが出てきます。
眠りから覚めることを自分自身に言い聞かせていて、覚醒する=気づいている状態に戻るという基本をわかりやすく表現しています。
そして、炎柱と鬼との対決シーンで、「ほぉ、そっちのセリフなんだ」と意表を突いたのは、
「戦い続けると、死んでしまうぞ」
と、鬼が真っ当なことを言っていること。
対決した結果は、炎柱になるほどに鍛え抜かれた者であっても、「敵と戦うしか道はない」と信じて、一歩も引かない正義が息絶えた。
これは、現代の医療体制や政治の在り方と重なります。
鬼の声に従うのではなく、鵜呑みにするのでもなく、耳を傾ける姿勢があれば、必ずしも息絶えるとは限らないのに。
炎柱=善、鬼=悪という固定概念から、「鬼の言う事なんて、ろくなもんじゃない」と決めつけて、作品全体を見ていないだろうか。
同様に、意識の目覚めに取り組む中で、「自我の言う事なんて、ろくなもんじゃない」と決めつけて、ジャッジしていないだろうか。
それこそ、『決めつけ』の刃を振り翳していないだろうか。
自我の声に耳を傾けるのは、光に戻す(=昇華する)には欠かせない才能です。
自我の声を聴くには、自我から離れている必要があります。
それが気づいている状態=覚醒です。
そこから、神魂と和合して、その声を聴いて、全面受容することで、自我が昇華されるのです。
どんなエゴの声も、その存在に感謝して、その働きに心底から感謝して、骨の髄まで感謝していないと、いつまでも繰り返します。
とは言え、私たちは何度も輪廻転生していますし、人類総出でサボってきた命題に取り組んでいる自覚があれば、繰り返すような現象が起きたとて、全く問題になりません。
それでも、やるんです。
覚醒している意識で、神魂と和合して、その都度、何度も、何度も、何度でも、祝って、よろこんで感謝する。
それをやり続けていくうちに、意識の変容と物理次元での変化を実感していくので、「だから、氣実が世なんだ」と納得できるのです。
このように、意識の覚醒は、霊的成長の土台です。
覚醒している(気づいている状態)は、特別なことではないのだと、この映画では、普通の少年である主人公が教えてくれます。
これを観れば気づきが起こるわけではありません。
それに、終始、感情の起伏は さほど起こらず、ドラマや映画の感情移入は、意識が眠っているから楽しめることも再認識しました。
人間目線で見る味わいもあれば、神目線で観る味わいもあり、映画の楽しみ方も無限に広がっているのです。
もう一つ、私事での時事ネタから。
約1か月間、時間も労力も全てを懸けて、母の身の回りの世話で明け暮れていたので、終わった時には、ぽっかり穴が開いたような、いわゆるロス状態になりました。
この、無気力のような状態を「よくないもの」とするのも固定概念です。
ロスになると、外側から替わりのもので埋め合わせる行為に動く者が多いですが、本来は内側から満たされるものです。
ロス状態(無気力)そのものを祝い、感謝することで、内側から感謝と祝福に満ちていきます。
あと、全力で向き合っていたにもかかわらず、ふとした瞬間に自分を責めるような妄想が炸裂します。
息を引き取る瞬間に立ち合えなかったことに罪悪感が出てきた時には、「そうまでして認めてもらいたい(光に戻りたい)のだな」と、
これまで無意識に酷使してきた罪悪感に心から詫びて、罪悪感そのものを祝い、よろこんで感謝しました。
このエピソードからもわかるように、妄想は、固定概念が光に戻る呼び水です。
気づいている状態であれば、どんな妄想も、カルマの昇華を推進する後ろ盾になります。
今では、これまで切り離すことに専念していた思考に対しても、その存在を祝い、感謝しています。
「全てを愛するって、こういうことか!」と、更なる気づきの深まりに、終わりなき歓喜を観じています。