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食に学ぶ おもてなし

  

私を真の道へ後押ししてくれたのは、写真家時代の体験です。

 

当時は、覚めた意識という表現すら知りませんでした(最初に《人型生命体の進化は神戻り》と教わった)から、流行のスピリチャルに惑わされることなく、淡々と地味に実践できています。

 

先達が発信している本や歌の読み解き記事を拝読していると、自ずと当時の体験が掘り起こされて、合点がいくことが多々あるので、変容のプロセスの一例として、実体験からの気づきを公開しています。

 

 

海外活動では、どこを訪問するにも、ほぼ 知り合いがいない状態で出向くのですが、それでも、必ず、例外なく、現地の方から歓迎のおもてなしを受けます。

 

どの国にも共通している おもてなしは『一緒に食事をする』こと。

 

中東では、どのお宅でも、お母さんの手料理が並ぶ食卓に招待され、東南アジアでは、外食文化が定着しているため、屋台やレストランで御馳走するのが一般的です。

 

 

そして、地域問わず、お子さんから お菓子を頂く機会が断トツに多く、謎の訪問者に対して「あなたに あげたい!」勢いが溢れていて、「人は本来、渡したい生命体だから、自分自身のことを私(わたし)って言うんだ」という気づきも頂きました。

 

ここで、一枚の写真をご紹介します。

 

 

一緒に食べているキャンディは、私が あげたのではなく、女の子からのプレゼントです。

 

そこはパレスチナ自治区で、近くに難民キャンプがあるエリアです。

 

背景が紛争や貧困と背中合わせの土地だとわかると、正義感や貧富の偏見から「現地の人に あげるべき」とおっしゃる方がおられますが、どのような環境であれ、目の前の人と、今この瞬間を共有していると、「こうあるべき」が入る余地はございません。

 

  

また、自宅では、同居人がいた頃は、毎日せっせと料理していたのに、一人になった途端、食材を買い揃えたり、手の込んだ料理を作る気力が失せて、白飯+味噌汁+ごはんのお共(漬物 他)が基本となり、「他者に振舞う喜びから料理していた」ことが判明しました。

 

実家が自営の飲食店で、必死に仕事をする両親の背中を見てきたので、『外食は手抜き』とは思いませんし、その存在に感謝して、喜んで頂くなら、レトルト食だって、最高の食事に変容します。

 

 

このような経緯が加味されて、未知の職域である《食》に携わろうと思い立ったのは、「食事は おもてなし」は世界共通だから。

 

今後、どのような おもてなしに発展するのか未知数ですが、《食》に育まれてきた成長過程を見直す機会となり、ありがたき幸せです。