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頼りがい? 頼りない?

 

気づきのアップデート(更新)を陰でサポートしてくださる先達の発信は、丁寧に、余すところなく的確に伝えてくださるので、

 

毎回「ブラボー!」と拍手を送りながら受け取っています。

 

 

その仕事振りは、人間目線で見ると頼りがいのある人として映るため、

 

「この人なら私を変えてくれるはず」と、無意識のうちに縋ったり、甘えたりして、自立に時間がかかることもあるように思います。

 

 

それが悪いわけではないけれど、自分で気づいていく、自らが観じていく姿勢を抜きに自立できませんから、

 

先達のサポートは補助輪くらいに思っていると、適度な距離を保てます。

 

 

私が出逢ってきた先達は、皆、「私の言っていることが正しいと思わないで」と補足されます。

 

これは、間違った時の保険ではなく、鵜呑みにしない・盲信しない・洗脳されるなということです。

 

 

事実、どんなに丁寧に噛み砕いて解説していても、先達が触れていない新発見があるので、「なるほど、そういうことか」と納得です。

 

もし、「先達が正しい」と決めつけてしまうと、新しい発見があっても「間違い」として却下することもありましょう。

 

そうなると、師と仰ぐ者の言動に雁字搦めになってしまいます。

 

これのどこに『中立』が感じられるでしょうか。

 

 

意外にも、ポンコツにも映る頼りない人が、周囲の才能を開花させている事例が少なくありません。

 

真っ先に思いつくのは、私に『物理次元は光の粒々(ドットの点滅)で出来ている』と教えてくれた特別支援学校の理科の先生。

 

 

彼女は、障がい者とされる生徒さん達からの学びを、書籍や講演会で伝えているのですが、

 

ご本人は、目がテンになるほどのドジっぷりで、「どっちが生徒だかわからない」と揶揄されるほど。

 

 

しかし、彼女が全身で体現している 天地自然から多くを学び、愛することを惜しまない振舞いは、

 

障がいの有無問わず、「この人のために何かしたい」スイッチが発動し、自主性や積極性を育んでいるのです。

 

 

ポイントは、彼女は「私のために」を望んでおらず、その能力は全体に向けて発揮されているところ。

 

障がい福祉は偏見と差別の踊り場なので、

(家族に障がい認定者がいて、障がい福祉の現場に従事して、肌で感じた印象です)

 

やり取りこそ個人的ではありますが、日常の出来事の発信が、見ず知らずの多くの人に気づきと発見をもたらしています。

 

 

生徒さんの多くは、言葉のコミュニケーションが不自由なため、言葉を駆使した説得は通用しません

 

言葉を介さずに、互いに親愛を育んでいく中で、両人も知らなかった才能が開花していきます。

 

 

私は、いろんな国へ飛ばされて、言葉が曖昧だから、全身から滲みでる本音しか伝わらない場面に遭遇してきました。

 

思いつく限りの単語とジェスチャーを用いて、意志を伝える&相手を理解することに集中していると、言葉を超えた体感の理解があるのです。

 

 

このように、私はスピリチャル業界とはリンクしない場で、スピリチャルの基本を知りました。

 

指導してくれる場ではないので、自分で気づくことで学びが発生します。

 

 

もちろん、「スピリチャルって何? 霊的成長とは何ぞや?」と探求し、数々の書籍、セミナー、神儀を重ねて理解できたことですが、

 

『スピリチャル』にこだわって、視野を狭めないで頂きたいなぁと思います。