先達から習って、腑に落ちたことをお伝えすることも大事だけれど、人混みに交じって、生活態度で示していくのも面白そうと思い立ち、「役立つ意志があれば、発揮のカタチは何でもOK」と、職業のこだわりをチャラにして、静かに市井に溶け込んでおります。
私は、学生時代から『就職』に対する反発心が根強く、人生通してイレギュラーな働き方をしてきました。
そして、【好き、興味がある、能力が優れている、他者の勧め】など、一般的に推奨されている『得意や有利な職業』を選んでいました。
上の2行だけでも、充分に「個」の主張が強く、『自由』に囚われているのが読み取れます。
与えられた役割を実行していた時であっても、周りからチヤホヤされて満更でもなかったため、純粋な真心でやっていたとは言えません。
これまで、多種多様な組織に入って、仕事も 人付き合いも 楽しくやらせて頂きましたが、生粋の感謝と祝福で従事した記憶はありませんし、どの職種であっても、それなりに褒められるため、周囲や環境への感謝よりも、周囲からの感謝を求めていました。
果たして、どんなに役立っているように見えたとて、その姿勢で社会と関わることが、全体貢献と言えるでしょうか?
自由とは、個人の好き勝手や思い通りにすることではありません。
本来の意味は、自らの由であり、『行動を裏付ける自らの意志』ですから、かなり捻じ曲げられた解釈が出回っているのです。
「完全に自由になる」と決めてみると、一氣に無限の可能性が広がります。
なぜ、そんなことが起こるのかと言うと、一切こだわりや偏見を持ち込まないからです。
「巷で謳われているスピリチャルって、強烈な偏見でコーティングされているなぁ」と思うのは、今も昔も変わりません。
『意識』が扱われるからか、俗に言う「意識高い系」に偏る方もおられます。
日常生活の中で、天意に沿って生きている者との関りが増えていけば、ごく自然に広がっていくと思うので、スピリチャルを神聖視する癖を解くには、何の変哲もない普通の人に「天意」を観る感性を育む必要があると、ヒシヒシと感じています。