霊的成長に取り組むと、自我から離れて、神意識となって、自我と対峙することになります。
常に、思考・感情に気づいていようと意識を向けているうちに、自我に雁字搦めになっているような錯覚に陥って、
「もしかしたら、スピリチャルに触れていない人の方が、自我を意識しない分、フラットなのではなかろうか?」と思ったことがありました。
でもすぐに、
「自我と一体化していたら、自我として認識することは出来ない。離れているから、対峙できるのだ」
と素に戻り、ブレることはありませんでした。
スピリチャルが盛り上がった裏で、スピリチャルという言葉にアレルギー反応を起こされる方が、少なくないように見受けられます。
もし、そうなっておられるなら、その殆どが個人の欲が満たされなかったのではないでしょうか。
その意志の発信源はどこなのか?
自我の欲を満たすのと、本道を探究するのは次元が違います。
エゴの死に至るプロセスで、まったく痛みを感じないのは不自然です。
ただ、痛みと同化せず、神意識となって、受け容れるから、昇華されるんです。
ちゃんと認めて、その働きに感謝して、表出を祝福するから、消化されるんです。
もし、スピリチャルを批判するようなエゴが認められるなら、《覚めた意識》とは、どういうことか、見つめ直してみてください。
『誰もが全てを愛する自覚意識である』と思い出すきっかけになれば幸いです。