· 

繊細にセンスを磨く

 

ここでは、次々と既存の常識を覆す解釈を投稿しておりますゆえ、人によっては、異議申し立てしたくなるかもしれません。

 

 

しかし、轍と化した固定概念に苦しめられ、堂々巡りに甘んじている歴史を学ぶうちに、

 

「なんかヘン。根本的に違う気がする」

 

と観じるのは、健全な感覚であり、発想の出発点を「ゼロ・白紙」に戻すと、制限のない新しい視点が生まれます。

 

 

『どれも素晴らしい』神の観点から見出された新解釈が、合点がいって、素直に納得した時に、記事ネタとして採用しています。

  

なんでも かんでも公開するわけではありません。

 

 

まずは、常識となっている人間目線の解釈、一旦、白紙に戻します。

 

何でもアリ・全部OKの土台に立って、何を拾うかでセンスが問われます。

 

 

「何でもアリなんだから、なにをやってもかまわない」というのは人間の主張です。

 

そうやって、人類総出で好き勝手を実践してきたから、世界的に戦いの歴史が繰り返されているとも言えます。

 

 

何でもアリだからこそ、繊細にセンスを磨いていく必要があります。

 

センスを磨くとは、自らの『天意を貫く剣(意志氣)』研ぎ澄ませること。

 

 

連日、後を絶たない不謹慎な振る舞いのニュースは、自身の言動を見直すきっかけになります。

 

他人事で終わらせず、そこに反応している感覚を見逃さず、丁寧に、繊細に、気づいて、浄化していくことで、

 

まるで別人になっていく自分自身が、全身感覚で理解できます。

 

 

例えば、未知を不安に思うのは、人間意識の轍(癖)であり、

 

一旦、白紙に戻してみると、本来の未知にワクワクする感覚が蘇ります。

 

 

このような変容している感覚は、実践している本人だけが わかること。

 

少なくとも、「私は変容していますか?」と、他者に尋ねるのは筋違いです。

 

他者の承認(許可)がなければ、自信が持てない癖は、今直ぐ終わらせましょう。

 

 

霊的成長によって、人間意識を卒業すると、誰かを説得する必要がなくなり、爪痕を残す必要もなくなります。

 

 

気負い頑張りがなくなって、それが そのまま周囲の反応や環境に現れるので、

 

それまで感じたことのない素直な生きている歓喜と、氣実が世(氣が結実する世界)の信頼が生まれます。

 

 

ただし、神魂からズレたまま、人間意識の延長でやっているつもりになっていると、

 

どんなに真面目に取り組んでいても、変容している感覚がわからず、迷い・戸惑いの渦に溺れていきます。

 

 

神魂は、私たちの本来の姿です。

 

『精神』と呼ばれるように、最初から神性が宿っており、外からゲットするものではありません。

 

人間という面の皮が厚すぎて、中心にある精粋なる神性が観じられなくなっているだけです。