ふと、現 大関力士が「相撲はスポーツではなく、神事である」と言っていたのを思い出し、
「伝統はあるけれど、どうして相撲が神事なの?」と、相撲について調べていたら、「はっけよい」を古事記から読み解くサイトに辿り着き、
行司の「はっけよい のこった」という掛け声について、俗説とは違う切り口で解読されていて、
大和言葉の「はつけ(初氣)」は、神々から祝福を与えられているという意味を知り、「だから神事なのか」と合点がいきました。
「はつけ」= 神々から祝福を与えられている
「よい」= 素晴らしい、美しい状態
「はっけよい」= 神々から素晴らしい祝福を与えられている
行司は神官の姿を模したものであり、
立合いが成立した両力士に向けて、「(あなた方は)神々から素晴らしい祝福を与えられていますよ」と伝えているのです。
実は、行司が「はっけよい」と発するのは、立合いが成立した後です。
力士同士が呼吸を合わせることで、立合いが成立しますから、互いの息を合わせることで、神々の祝福を受け取れるのだと読み取れます。
逆を言えば、立合いが成立しなければ、「はっけよい」と言いたくても言えないわけで、
立合いの度に互いに息の合った呼吸を祝っているなんて、目からウロコの大発見でした。
「のこった」も調べましたが、「勝負がついていない合図」に落ち着くため、競技の掛け声として後付けされたもののようです。
冒頭の力士にとっては、仕事が神事なんだと知り、「だったら、私たちの生活が神事もアリだよね」という発想が生まれ、
「人に限らず、全ては いのち(意の知)の現れ なのだから、生命活動そのものが神事である」
という事実に気づいたのでありました。