『命を削る』ってヘンだよね。命は形がないのに、どうやって削るの?
この気づきに、先達の発信とのデジャブを感じて、「これは、わたしの担当じゃないのでは?」という問いに対し、「そうと決めつけなくてもいいのでは?」との返答がありました。
誰かに起きているのと、似たような気づきが、わたしにも起きているってことは、気づきの波紋が広がっているってこと。
誰かの気づきのスパークは、こんな風に波及しています。
そして、わたしの気づきは、どこかの誰かにも波及しています。
そう思うと、静かに身体の奥が温かくなって、全身でじわじわ嬉しくなってくるのです。
どんなに頭が騒ぎ立てようとも、ただ静かに観ていると、ことの成り行きが「思ってたのと違う」ことが多々あります。
例えば、公共の場で、マナーの悪い子どもに対して、一言申すのは当たり前だと思っていました。
(保育に関わっていた頃は、うざいくらい叱ってました)
ですが、実際に、そういう場面に居合わせた時、自分の中の「良かれ」だったり、「きっと悪さするに違いない」決めつけだったり、
「こうあるべき」の埃を見つける機会になって、ここに集中していたら笑えてきて、慈しみ愛でる見方になっていました。
これに限らず、同居の母がわたしに投げかける一挙手一投足さえも、「わたしが気づけるように、演じてくれてる」って思います。
それが自然に出来てくると、何かを見たり、何かを言われて、感情がざわついたら、自我(カルマの傷)を癒すチャンス!と理解します。
外に向けていた認識を、内に向けていく。
神魂・愛の意識として、自分が使っている信念・概念を認識する。
それらの働きに感謝して、祝って光に戻す。
これは、具体的 且つ ロジカルであり、実感を伴う意識と肉体の共同作業です。
一つ一つ丁寧にクリアにしていくと、曖昧さが消えて、楽しく実践できます。