· 

普く照らすために

 

個人的に不都合な現象に対して、多くの方は、最低最悪の事態を避け、対策を練り、対処しています。

 

私も そうでしたが、腹を括って「すべてを祝う」と決めてからは、恐怖を感じる場面においても、思いつく限りのベストを尽くした上で、どうにもならないモノコトは、それが全体ひとつの運びであると認めて、引き受けるようになりました。

 

 

写真家時代のエピソードを用いることがありますが、当時は、嘘偽りなく、すべてを尽くして「喜んで全部引き受ける」を実践していました。

 

そこで《おかげさまの後押しによる弥栄展開》を体験で学びました。

 

この経験があるため、真に還るプロセスも、「さくっとイケるんじゃないか」という思い上がりがありました。

 

 

でも、実際には、まったく違う側面から、「これだけは絶対にイヤ」を思い知らされる現象が起きました。

 

他者のエピソードとして聞く分には差し支えなくても、当事者になると感情が乱れます。

 

「これをやってしまったら、よそ様に顔向けできない。もはや死んだも同然」と。

 

・・・「あらあら、全然、腹括れてないじゃん」と、プライドの喪失を拒む覚悟の甘さが炙り出され、「死んだも同然で海外に飛び出した」初歩の記憶が蘇り、「これを引き受けないことには先に進めない」と認めて、感謝し歓びで引き受けるようになりました。

 

 

人間の輪廻転生からわかるように、肉体が死んでも個のプライドは癒えません。

 

この世に生きていないとカルマの傷は癒せないのです。

 

 

そこで観えてきたのは、「不都合に思える現象は、普く照らすために起きている」こと。

 

人間意識だと、祝うには条件が必要となり、照らせる範囲が狭いですから、神意識に変容しないと、普く照らせません。

 

普く照らす土台が整っていると、いたずらに恐怖に打ち震えることなく、大らかな天意からの愛で対応しますから、拒否していた現象でさえも、健やかな霊的成長を歓び、「なるほど」と納得の展開として認識します。

 

 

先達から「天意からの愛で、何でもさせて頂きます」という姿勢でいる大切さを教わりました。

 

これは、能動的なアクションだけでなく、「起きてくることを引き受ける」も含まれるのだと身を持って知りました。