スピリチャルの本道を進むと、 自己都合の引き寄せとは、まったく質が違うため、
自我にとっては、「こんなはずじゃない」と逃げたくなったり、「これでいいのだろうか」と疑いたくなる場面に立ち合うことになります。
カルマの浄化、自我の昇華など、呼び名は違っても基本は同じ。
人によって言葉に乗せているイメージは違うので、表現のバリエーションとお考えください。
これまで日を当てよう(=認めよう)としなかった感情パターン・思考パターンに気づいて、光を照らして(=祝福して)愛に戻すことが、カルマの浄化となります。
本来は、陰も陽も対等なのだから、そこに好き嫌いや良し悪しを用いるのは、人間プログラムの勝手な決めつけでしかありません。
世界全体が揺れている今、私達に出来る奉仕は、陰も陽も 元の愛に戻すことではないでしょうか。
スピリチャルの本道を進むうちに、写真家活動で学んだ天意が腑に落ちました。
私が訪問した場所は、発展途上国という呼び名をつけて、対象を『弱者』に見立て、援助する人が多く集まる場所でした。
そんな中にいても、必要に応じたお手伝いをするくらいで、笑顔を共有することに徹していました。
それゆえに、「そんなことより、役に立つことをしなさい」と、批判されたこともあります。
しかし、現場では、先進国目線による援助だけが、求められているわけではありません。
正義や生産性ばかり押し付けていると、ちぐはぐな対応になっていたりするんです。
長い物に巻かれることなく、淡々と当てられた仕事をしていくうちに、
私が外から光(喜び)を与えているのではなく、過酷な環境にあっても失せない内面の光(生きる喜び)を写しているのだ と気づきました。
活動そのものが、陰陽合一の一端を担っていたと知り、過去の出来事ではありますが、全体に活かすべく、何度も記事に登場しています。
今は、表面の『笑顔』から、内面の『祝福』へシフトして、陰ながら、日の当たらない場所を照らす作業を続けています。
多くの人達が避けたがる事、拒否している感情、嫌っている思考を、ポジティブとしてきた事柄を祝うのと同様に、盛大な祝福でもって、光に昇華していくのです。
ちなみに、盛大に祝う=喜んで感謝する です。
前回の記事をアップした後に、『盛大に祝う=どんちゃん騒ぎ』というフレーズが浮かんできたので補足しました。
祝福していると、自然と笑みがこぼれます。
ですから、やっている事は変わっても、根源は変わりません。
自分が何者か(=神の魂)を認めて、全てを祝福する。
それが、天意そのものになっている生き方です。