「世の中で、役立ちたい」
これは、全体の発展を共同創造していこうとする人型生命体の自然な発想です。
しかし、この何気ない一言にも、社会の都合による刷り込みがあります。
未熟な意識で 役立とうとすると、誰かや何かに影響を与える存在であろうとします。
直接的、または間接的に、刺激を与えようとするのです。
そうしなければ、他者の承認や、自分の達成感や高揚感が得られず、「自分が社会で役立っている」とは思えないからです。
でも、天地自然の基本に立ち返ると、人に限らず、全員が存在しているだけで価値のある存在です。
私たちは、個役を担っている者ですから、この世に生を受けた時点で役が立っています。
ですから、「ただ生きている」ことが、既に『役立っている』状態なのです。
役を担う側の自覚を持ち、あらゆる全ての生命の尊厳を認めた上で、行動していくことが基本中の基本です。
どこの誰が どんな振舞いをしていても、「誰もが素晴らしい存在だ」と認めるなら、それが自己肯定となります。
自他はないので、いくら一個人の許せる範囲に限定して「素晴らしい存在だ」と思ったところで、自己肯定は成されません。
自己肯定せず、無価値感を隠し持ったまま、社会的に役立つ仕事をしていても、虚しさが湧いてきます。
この虚しさは、本来の在り方を呼び覚まそうとする虚空からのメッセージ。
ですから、虚しさを嫌がらないでください。
虚しさを感じたら、人間プログラムから離脱し、神魂に合一した在り方への分岐点に立っているお知らせです。
物理的に『立つ』のは、天地の結びによって、生かされているから出来る姿勢です。
何気なくやっている『立つ』動作は、空間のサポートがないと出来ないのです。
これを知れば、天地自然の空間に感謝して、いのち(意の知・命)を信頼するのは難しくないと思うのですが、いかがでしょう?