毎日、土まみれの作業着と長靴姿で、ご自身で育てた野菜を直売所に運んでいる100歳のお爺さんがいます。
華奢で、皺くちゃで、動作も口調もゆっくりで、若々しい印象はないけれど、毎日、晴れでも小雨でも 淡々と畑仕事をして、
真夏の炎天下でも、黙々と駐車場や庭の草むしりをされるのですから、 子どもやアスリートとは比べようのない底知れぬ体力が読み取れます。
(地主さんなので、点在している所有敷地に出向いて作業されています。)
見た目は「年季の入った爺さま」に、底なしの生命力を観じるのです。
この事実から、見た目と生命力は、リンクしてそうで していないのがわかります。
この記事が生まれた背景に、「どうして老化・劣化するの?」という問いの中に、私の中に残っていた『見た目の偏見』が読み取れて、
年季の入った肉体に、底なしの生命力を発揮されているご近所さん
が思い浮かんだ次第でございます。
そこから、歴史的且つ社会的に刷り込まれている『若さ・老い』に気づき、それに縛られる必要はないのが理解できました。
私は、亜熱帯でも、乾燥地帯でも、炎天下でもお構いなく、素肌で野外を歩き回っているからか、シミ・そばかすが多いです。
それでも、肌のお手入れは必要最低限で充分です。
髪は、学生時代から変幻自在に、思いつく限りの可能性を体現するべく、
あらゆるヘアスタイル
(ロング、ボブ、ショート、剃髪、ストレートパーマ、巻き毛パーマ)
あらゆるヘアカラー
(ブリーチ、自然派ヘナ、高級弱酸性カラー、ドラッグストアのヘアカラーなど)
を楽しんでおりましたが、
白髪が増えてきたのを機に、「化けの皮を剥ぐチャンス」と、それまで定期的にやっていた髪染めをやめました。
装飾を纏わないと、『素』の観察と同時に、偏見が炙り出されるので面白いですよ。
偏見を一掃すると、内なる視界が晴れるのを実感しますから、自分が握り締めている偏見を認めるのが、浄化の初めの一歩です。
済んだと思っていても、引っ掛かりを感じたら、そこには必ず偏見があります。
焦らず、腐らず、気づいたら丁寧に外していきましょう。
私が出逢ってきたスピリチャルの真の理解を先導してくださる方々は、「(守護霊や上の次元と)対話している」のがわかるので、
それを見たら、気後れする気持ちも わからなくはないです。
しかし、一昔前に比べたらスピリチャルに生きる環境が整っていますから、まずは「どんな言い訳も通用しない」と肝に銘じましょう。
(スピリチャル=永遠無限に発展繁栄していく宇宙創造主の意志、天意)
だからと言って、自分だけでやろうとするのは早計です。
しっかり基本を学び、実践を重ねていかないと理解には至りません。
(これは分野・業界を問わない共通項です)
後ろめたさだったり、何かしらの引っ掛かりがあるなら、我流になっていますが、
その都度、真につながり直せばいいので、切り替えていきましょう。
意識が変容したら、それで終わりではありません。
今となっては、「魂は死なない」は医療業界にも認知されており、
これからは、神魂と神体の永遠の愛の結びによる肉体の変容(肉体死は選択できる)に移行していきます。
「そんなことありえない」と言いたくなるかもしれませんが、科学の進歩も手伝って、
理論上(量子物理学)で肉体の不老不死を説く者が出てきて、「絶対ありえない」とは言い切れなくなっています。
このように、今では、科学とスピリチャルが統合されていますから、《意識と肉体の変容》は凡人の成長過程という事が理解できれば、
『スピリチャル』という響きに疎い方々にも浸透すると思います。
人間は死ぬことに慣れ過ぎて、「肉体死」というゴールを設定しているけれど、
それが魂の本意ではないので、全員が転生を繰り返してきました。
慣れ親しんだ死ぬことより、前人未踏の肉体とともに永遠無限に生きる方が怖くてたまらない。
それもあって、現段階では、理論的に不老不死を説かれても、実践どころか、それを認める者も少ないです。
新陳代謝に見られるように、肉体は いつだって常にリニューアルされているのに、
有限(寿命・必ず死ぬ)の意識によって、無意識に肉体の機能を低下させてきました。
しかし、意識が変容してくると、物理次元の『常にリニューアルされている』のが、より鮮明に現れていきます。
「自分で神儀をする」と決めたその日から、『永遠無限に陰陽を結ぶ』神々に意識を合わせていると、
身体の内奥から「嬉しい・ありがとう」が感じられるようになりました。
そして、20年前、自分勝手な絶望感に苛まれ、ネガティブ思考を突き抜けて、捨て身で「生きる」行動に出た時、
「どんなに消しても、けして消えない いのちの火を観じていた」のを思い出し、
「本当は肉体だって、どこまでも生きていたい」と確信しているし、
「生き活き」が本来の生活なのだとわかりました。
神々に意識を合わせている間は、個人的な事は一切介入できませんから、神儀は個人がしているのではないことが腑に落ちて、
「私がやるなんておこがましい」とする古傷も昇華され、全身が更にクリアになりました。
こんなに 濁りのない清々しい全身感覚 は久しぶりです。
この感覚が、神儀が斎行された証明です。
素晴らしい機会を提示していただき、ありがとうございました。
今ここに、先陣を切って発信してくださる先輩方の勇氣と心意氣を敬い、
誰もが神々の一端という真を体現する分身(分神)に務めることを宣明いたします。
「真を理解し、実践する者」が増えていくきっかけになれば幸いです。