どんな分野も関係なく、世間の評価も関係なく、真剣に地道な実践の積み重ねをしていると、
個人が望む、望まないに関わらず、本質に気づく機会に恵まれます。
そこで、気づきが起きて、本質が腑に落ちると、本質をベースにした仕事が出来るようになります。
これは、生きる土台なので、主張せずとも、普段の立ち振る舞いに現れますし、特定の職業に従事する、しないは、関係ありません。
霊的成長を進む道すがら、誰かに太鼓判を押してもらったとしても、それを鼻に掛けてサボるなら、神体感覚は鈍ります。
三歩進んで、二歩下がるどころか、一気にふりだしに戻ります。
どんなに卓越した職人だって、人気や評判に踊らされてサボっていたら、身体感覚は鈍ります。
逆に、苦境に立たされても、周囲(家族も含む)に批判されても、実直に己の仕事をやり続けることで、見えない加護を感じているのは、
他でもない職人自身ではなかろうかと、典型的なダメ親父でもあり、寡黙な寿司職人だった父の背中に感じてきました。
奇をてらう必要はなく、「喜んでもらいたい・最高のおもてなしをしたい」という真心とベストを尽くす仕事によって独創性が生まれます。
例えば、「江戸前寿司」を作るにしても、Aさん・Bさん・Cさんでは、素材の目利きが違うし、仕込みも違うので、同じメニューでも、同じモノは作れません。
どんなに細部まで真似したところで、それぞれの生きる姿勢が、そのまま反映されてしまうので、どうやったって同じにはなりません。
それに、やればいいってものではありません。
善意の押し付けは、ウザイだけで、おもてなしにはなりません。
万物の奥で支えているいのちへの感謝と共に行なう毎日の地道な積み重ねが、結果的に、匠の技となりますが、
それは、特別な誰かの専売特許ではなく、私たち全員に共通する才能です。