生命の神秘を学ぶにつれて、魂はもとより身体(カラダ)に関して、世界的に評価されている専門家の話を聞いても、知りたいコトは「もっと奥にある」ため、「自分でやるしかない」と思い至りました。
そこで、現在も全集中で『食』の課題に取り組んでおりまして、長らく母の健康やプライドを踏まえて、カラダに良いもの・上質なものを選り好みしていたので、善悪の概念を超越するべく、コンビニ食やファストフードなど食の正義に反するものも積極的に取り入れています。
母の終末介護を通じて「食は生命力を補うものではない」と知り、医食同源の発想ですら人間の後付け理論であって、本来の光こそが生命力の根源だと、このカラダを通して、観察し、実証したくて、良いも悪いも超越する食育に励んでおります。
まず、光の根源(=虚空)と合一し、常に光の栄養を摂取して、生命力を活かしながら、『食』は豊かな体験の一つとして、適宜、楽しく美味しく摂取しています。
どんなに身体に毒とされるモノであっても、舌で「まずい」と感じたモノであっても、感謝と祝福から歓んで いただきます。
たとえ、理論的に身体に良いモノを摂取しても、生命力が落ちていたら、栄養が吸収できずに排出されてしまいます。
逆に、身体に悪いモノを摂取しても、生命力が活きているなら、カラダが適切に対応して、毒素も栄養も余分なものは排出します。
もし、食が肉体の大黒柱であるのなら、大食いの人は全員栄養過多や肥満になるはずなのに、そうなっていませんし、偏食の人は全員栄養失調になるはずなのに、そうなっていません。
そこから、自然と「そもそも、根幹が違うのでは?」と気づいた次第です。
こんな風に『総ての人が気づきを促す尊い存在である』と、わかりやすく体現してくださることに感謝しかありません。
善悪を超越する食育活動は、少なくとも、嘘偽りなく「どっちでもOK」と言えている実感があるまでは続けていきます。
どんな知識を得ても、《総て対等》が腑に落ちない限り、何も理解していないのと同じですから。
「どっちでもOK」とは、どう転んでも 幸せだという意味です。
これは、健康だけでなく、経済に関しても、社会的な善悪を超越して、嘘偽りなく「どっちでもOK」と言えている実感が腑に落ちるまでは終われないと観じていて、積極的に敬い、感謝する姿勢で引き受けるからこそ、カルマが癒され、条件に左右されない生命の歓喜が蘇ります。
食育実践の経過報告ですが、「なんでも感謝して頂く」ようになってから、こだわっていた時よりカラダは元気で快適です。