その昔、「結婚は人間の最高の幸福であり、一人前として認められる」のが常識の国で、ホームステイ先で見合いをセッティングされました。
当時の私は、「結婚は100%ご縁だから、そこに個人的な感情を持ち込む必要はない」と思っていて、全面的に受容態勢で臨みましたが、破談になりました。
結婚は、互いを尊重し、受容して、「共に栄える・子孫繁栄」の意志を共有した共同作業です。
全面受容していることに現を抜かして、「共に栄えよう」とする共同作業を怠るなら、結婚に至るわけがありません。
「ご縁がなかった」で片づけていたけれど、『ご縁』に全責任を擦りつけて、おんぶにだっこなら、ご縁の方から願い下げです。
当たり前ですが、結婚は「幸せにしてあげる」ものでも、「幸せにしてもらう」ものでもありません。
「お嬢さんを僕にください」という親御さんへの決めセリフに、妻と夫は対等である意識が感じられるでしょうか。
何の違和感もなく、慣例だからと、鵜呑みにするなら、所有や主従の概念をベースとした夫婦の間柄が構築されていきます。
事実、地域活動の中で、妻の役割をされている方々の日常会話を拝聴していると、ほぼほぼ皆さんと言っていいほど、
対等を装っても、条件付きの受容(ギブ アンド テイクで折り合いをつける)が結婚の土台になっているのがわかります。
この流れを受けて、観察意識の盲点が浮上しました。
「観察意識だもの」と、ただ観てるだけで止まってしまうなら、発展の意志表明と実行が伴わないため、結魂には至りません。
どんな現象も、全てが気づきのチャンスですから、これだって「よかったこと」ですし、本当に有難いのです。
真の大人になる・人型生命体の進化となる結魂は、人間意識が求める幸せを約束するものではありません。
いついかなる時も、愛と感謝と祝福を感じ続けることは、天意として振舞うことであり、周囲に愛と感謝と祝福を振舞うことになります。