徹底して神魂の自覚でいると、それまで怪訝な眼差しを向けていたマスメディアで拡散されている雑多な情報に対して、それも、過去の自らが創り出した現象であるのを認め、それら全てがカルマの浄化の対象だと認めるようになります。
そして、この混沌とした状態は、蛹の中で起きているのと同様に、世界全体の変容のプロセスだと観じています。
個人が神になろうとすると、教祖になれちゃう?!という履き違いが生じますが、私たちは、元から神と同質の生命体であることを思い出し、これまでイキってきた自我を愛する側であることを思い出し、傷だらけの自我を、生粋の光に還す浄化を実践していくことで、己の中の分断も、自他の分離も中和されます。
最初から神と同質なのに、それが わからないのは、自我に覆われて 内観感性が鈍くなっているから。
原点に戻って、神魂そのものになると、表層を覆っている自我から離れることが出来ます。
長らく、意識の覚醒が もてはやされてきましたが、カルマが浄化した後に、意識が覚めるわけではありません。
最初に、全母たる虚空と結ばれた神魂の自覚がないと、自我は光に還ることができません。
よって、意識が覚めている状態だから、カルマが浄化できるのです。
「多くの植物は 葉をつけた後に花が咲くけれど、花の後に葉をつける桜は順番が逆なのか? 順番って何?」
と考えたことがありましたが、自然の摂理に合っているので、順番が逆ではなく、順番のバリエーションを示してくれているのであって、「順番が逆とは、自然の摂理に反すること」です。
どんなに正当化しても、自然の摂理に反するものは進化発展しないので、順番が逆のままでは、自我は消化されません。
世界的に『自我の統合・意識の覚醒』が盛り上がった割に、覚めた状態で生活している者が少ないのが それを証明しています。