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なんでも裁判官

 

些細な内面の動きに注視していると、面白いくらい『なんでも裁判官』になっています。

 

多くの人々が、ニュースを見聞きして、目の前に展開されている現象に向けて、何かしらのコメントや、意見を言わずにはいられません。

 

褒めたり、貶したり、良し悪し関係なく、ひっきりなしです。

 

 

もちろん、私にも、いろんな思考が通り過ぎます。

 

観ている側に徹していると「よくまぁ、こんなに浮かぶもんだ」と感心します。

 

「えっ、そんなことまで?!」とビックリするくらい、兎にも角にも思考のテロップ大放出です。

 

 

「意識が覚醒しているなら、そんなテロップが流れるはずはない」と、思考全般を無意識に否定していませんか?

 

ほら、なんでも裁判官のお出ましです。

 

 

テロップを認めたくなくて「他者に聞こえていないからセーフ」「声に出さないからノーカウント」とはなりません。

 

内面の動きを観察しているのですから、こんな言い訳を採用するなら、意識が目覚めようがありません。

 

 

なにゆえ、私達はこんなにも一言申したいのだろう?

 

それは、「人間意識との絆」

 

する側であれ、される側であれ、批判であろうと、賞賛であろうと、とにかく何でもいいから人間意識に繋がっていたいのです。

 

 

とにかく一言申したいテロップは「自分のものではない」と気づいているなら、自我から離れている状態です。

 

自我と同一化せず、神魂としての自覚を持ち、その意識で日常のあらゆるモノコトに向き合う。

 

それが新しい意識の在り方です。

 

 

ここで、エゴが喜ぶ言い回しをしないのは、もうそんなことしている場合じゃないから。

 

 

こんなに史上最大級の災害やら、世界的に異常社会現象が続くと、

 

「これまでの繰り返し(人間の采配)では、どうにもならない」気づいてしまう者が現れます。

 

 

私は、地球上の各地に飛ばされ、紛争と貧困を目の当りにして気づきましたが、もうその必要もないくらい切羽詰まってますもんね。

 

 

図らずに窮地に陥るにしろ、自分から未知に飛び込むにしろ、

 

個人の裁量ではどうにもならない状況に置かれると、天意気づいてしまうもの。

 

 

目に見える頼みの綱がないからこそ、目に見えない大いなるサポートを感じるのです。

 

個人がどうこうするのではなく、そのようになってしまうのです。

 

 

人間の裁量を超える経験は、誰もが持ち合わせている天意する感性が開花する機会です。

 

 

天意で生きていると、

 

この世は愛(どれも素晴らしい)で出来ている

 

この世は感謝に溢れている

 

この世は祝福に満ちている

 

その真実体験で知ることになるのです。