先日、出先で置かれていた詩集を読んでいたら、八月の蝉というタイトルの詩の中で、『蝉の大合唱の奥にある静寂』という一文があり、
いたるところで気づきは起きているのだと、こんな風にして教えてくれることに感動しました。
いつだって、どこでだって、静寂とつながることは出来ますし、メッセージは受け取れます。
もう『特別扱い』から卒業しましょ。
特別な能力は必要ないし、〇〇チルドレンのような崇拝もいりません。
ましてや、特別なカタチなんて、どこにもありません。
見落ちしがちですが、「自分なんて」という卑下も特別扱いの一つです。
ネガティブとポジティブも、語尾に「思考」をくっつけて特別扱いしていますが、なぜ、そうなったのか不思議でたまりません。
写真家時代に頂いたカメラは、フィルムの一眼レフでしたので、一般的なネガフィルムだけでなく、
玄人受けするポジフィルムも使ってみましたが、「ただ反転してるだけじゃん」というのが率直な感想でした。
ポジティブとネガティブは、只の裏表なのに、ネガティブを否定して、ポジティブを肯定するのはナンセンス。
同じ生地を見て、表は賞賛して、裏を酷評するって、なんかヘンですよね?
裏に支えられて、表が際立つのがわかると、裏も表もない『おもてなし』に感動します。
「今、生きている」と実感できているのは、本当に当たり前なのでしょうか?
静寂を知ると、この生を支えている裏の存在が観えます。
見えないのに、リアルに感じるのです。
この静寂が、宇宙を創造している大いなる知性であり、この静寂に愛されているからこそ、
この世の全てが存在しているし、存在の全てを愛し、喜んでいる宇宙の愛の円環がわかります。
これを全身感覚でわかってしまうのです。
そこに頭の出番はありません。
脳の98%は未開発と言われている頭で理解できるほど、ちっぽけではないということです。
今に居て、全体に向けて愛を放つことに集中していると、不自然な妄想や感情が入る余地などありません。
集中は、一点しか見えていない状態ではありません。
集中するからこそ、全方位に意識が広がっていろいろなモノの見方や、いろいろなモノが観えてくるのを、ご自身で体験してください。