《存在の全てが豊かさの現れであり、体験の全てが豊かさの現れである》
これが腑に落ちると、どんな存在にも、どんな体験にも、敬い、感謝し、祝福が観じられます。
社会的に敵視され、悪者扱いされるモノコトに対しても、人間的に羨望され、良識者扱いされるモノコトに対しても、対等に「すべて素晴らしい」弥栄な現れとして観るようになります。
これらは、ベクトルが逆なだけで、光が変質低下しているのは同じですから、真の目で観ると、どちらも「光に還すエゴ」として認識します。
《あらゆる全てが尊い》と認めていると、偏見の壁は崩壊します。
人が「豊かさを求める」のは、自然な発想です。
ただ、うっすらでも「こんな〇〇はイヤだ」という拒否があるなら、それを認めて、感謝する(光に還す)機会が現象化してくれますが、それは「豊かではない」のでしょうか?
既に「豊かである」と認めているからこそ、「絶対イヤだ」と拒否し、回避し、認めてこなかったエゴが浮上する現象は起きます。
(表出のカタチは、人それぞれ異なります)
カルマの浄化をしているのに、何度も繰り返していると、「カルマの轍ってハンパねー。人類総出のエゴのモンスター化 大成功だね☆」という新しい気づきが訪れて、「本当に何もかもが霊的成長のサポーターじゃん!」と認めざるをえないのです。
「ちょっとやってみて 望む結果が出ないなら やめる」のは明らかにエゴですし、一人孤独で地道な鍛錬が必須なのをお忘れなく。
こちらでは、自由意志を尊重していますので、「豊かではない」とする主張に、慈愛と祝福を送ります。
私たちの真魂は、《すべてのエネルギーを自在に扱う創造主と同質です》から、「豊かではない」を体験できた歓びを知っています。
こちらのサイトは、人間的豊かさを煽るスピリチャルの裏を補足する場に仕上がっているためか、一貫して静寂が保たれています。
人気はないけれど、毎日、誰かしら訪れてくださっていて、「そういや、こういう神社は沢山ある」と気づき、御祭神は、人型生命体の能力の象徴であり、神社は御神体の象徴であるのを思い出しました。
日本には、至る所に大小様々な神社や祠が建立されていますが、人気のない神社は必要ないですか?
そして、多くの人が気づかないような さり気なく道端に祀られている祠には、存在価値はないですか?
この問いかけに、どのような反応なさっているか、しっかり真の目で観てくださいね。