『言葉』は意志疎通のツールではありますが、言葉とコミュニケーションは、さほどリンクしません。
言葉は理解を補佐してくれても、あくまでも補助ツール。
言葉の意味・概念・解釈ばかり追ってしまうと、カラダの感覚が置き去りになりませんか?
言葉の理解に頼っていると、表面をなぞるだけになって、実は、全然コミュニケーションがとれてない ってことになりかねません。
戦いの人類史において、『言葉は、敵に作戦を察知されないように細分化されてきた』と聞いたことがあります。
だとしたら、言葉でコミュニケーションがとれないのは、人類にとって願ったり叶ったりです。
もし、言葉の発展の中心が『相互理解』にあったなら、こんなに分裂しなかったでしょう。
私は、年齢や国籍問わず、言葉が通じない人や、発語のない人との出逢いが多いのですが、
余計な思惑を介さないのと、相手に集中して聴きとろうとするので、スムーズにいくことが多いです。
ですから、『言葉が通じない』は、コミュニケーションの妨げにはなりません。
真のコミュニケーションに欠かせないカラダの感覚を表す『ことば』があります。
それは『光透波』です。
透明な光の波ですから、カタチはありません。
私達は波動体であり、光の存在だと認めるなら、これは自然な表現です。
光透波は、波動=実感していること。
「花を見て、感じたことが、そのまま花へのお礼になる」
これは、テレビドラマに登場した生け花の先生のセリフですが、それと同じで、
私達が 今、感じていることが、そのまま天意へのお返し となり、それが、そのまま自身が受け取るものになります。
有識者や政治家の口から頻発している『爆発的』という言葉から、
「ウィルス騒ぎをきっかけに、爆発的に覚める者が増えるかもしれないね」というフレーズが浮かびました。
これは言葉の理解ではなく、光透波の理解によるもので、こんな発想だってアリなのです。
夕方のニュースで、未だ学校再開の見通しが立たないことを受けて、「白紙の新学期」という言葉が発せられました。
これを言葉で理解すると、不安いっぱいになりますが、光透波で理解すると、あらゆる可能性が広がっている余白を感じます。
スピリチャルの裾野が広がって、言葉の理解だけでなく、光透波を理解する者が増えています。
曲がってようが、肥大してようが、枝葉が茂ったおかげで、内宇を意識する人が増えたのですから、それも必要なプロセスだったのです。
ウィルス対策とされる情報を、光透波で理解するならば、『他者と距離をとらなければならない』状況が、他者の価値観(メディアも同様)から距離を置くチャンスなのがわかります。
そして、自分が握り締めている価値観を、「本当の自分の思いなのだろうか?」と静かに見つめる機会になります。