『かがみ』と聞くと、『鏡』をイメージされる方が大半だとしても、
当たり前ですが、一択ではありません。
『各務』と書いて、『かがみ』と読みます。
各務を調べると、地名や姓氏の一つと出てきますが、
文字を そのまま観ていくと、【各々の務め】となります。
その昔、神社に奉納されている鏡にまつわるお話で、
『かがみ』の真ん中の『が』を抜くと、『かみ(神)』になるので、我を抜くことを推奨する話を聞いたことがあります。
「へー、そうなんだ」と、日本語の面白さに感動した覚えがありますが、
ふと、「我は邪魔なの?」という問いが浮かんできて、掘り下げてみました。
この話の前提に、我は、神に割り込んでいるもの とする偏見が読み取れます。
偏見を土台とした人間意識のままで 我を抜こうとすると、「良くないものを排除する」個人都合の圧がかかります。
どのような我であれ、そこに感謝と祝福で送り出す天意がなければ、『我』は一時的に抑圧された状態となり、
脳内だけで「我を抜く ➨ 忘れた頃に、また我を抜く」作業の繰り返しになります。
それって、たのしいですか?
我を抜くという発想から、『我』を本来の姿である『光』に戻す発想に切り替えると、
「が」は『賀』(よろこび祝う、ことほぐ)にもなるし、『河』(大きな水の流れ)にもなり、弥栄を奏で始めます。
神社の鏡は、自らの内なる神を観るためにあるのなら、
『が』を抜かずとも、各々の務めを映し出す『かがみ』として、そのままを観ればいいのだ。